一乗寺 (羽島市)
一乗寺 | |
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所在地 | 岐阜県羽島市西小熊4292 |
位置 | 北緯35度21分00.9秒 東経136度41分37.1秒 / 北緯35.350250度 東経136.693639度座標: 北緯35度21分00.9秒 東経136度41分37.1秒 / 北緯35.350250度 東経136.693639度 |
山号 | 小熊山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 不明 |
開山 | 江西祖伝 |
開基 | 空海 |
札所等 | 美濃四国35番札所 |
文化財 | 天明地蔵尊 |
法人番号 | 9200005003671 |
一乗寺(いちじょうじ)は、岐阜県羽島市小熊町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は小熊山。美濃四国35番札所。
歴史
[編集]真言宗の寺院として弘仁10年(819年)に空海により開闢されたと伝わる。その際に橋杭を用いて自ら地蔵を彫ったとされ、小熊地蔵として尊崇されるようになる。
おおよそ、空海が布施屋を設けたことを記していると思われる。承和二年(835年)六月廿九日に出された太政官符に渡しの船を増やし布施屋を整備したことが「古事類苑」という文献からみられる。その渡しと布施屋は国司と国分寺の講讀師による共同経営であったことから、次第に大寺院の管理下におかれたことが分かる。いずれも開闢という言葉から分かるように何らかの信仰地が寺になっていったのである。
鎌倉時代の文治3年(1187年)には源頼朝が祈願を行って戦いに勝利したため、伽藍を再興して千両の団金を寄進したされる。団金を寄進する際に「朝日さす 夕日かがやく木のもとにこがね千両後の世のたから」との歌が添えられていたことや、団金のその後についての伝承がないことから埋蔵金となっているという説がある。
源行家と義円らが陣を敷いたことや源義経と梶原景時が源平合戦のおり西国に向かう前に落ち合ったこと、源頼朝が初上洛した際に行き帰りにに休憩したこと、鎌倉将軍は上洛の折りは休憩していったことが「吾妻鏡」にみられる。源頼朝が上洛した際に梶原景時に命じて寺と街道を修繕したことから団金も寄進されたと考えられる。
永禄11年(1568年)に織田信長が小熊地蔵を岐阜に移したが、しばらくして地蔵が小熊に戻りたいと信長に夢枕で宣ったため、信長は地蔵を移した場所を小熊と改名した。
「信長公記」によると、森部の戦いで勝利した後に陣を敷いたことがみられる。「武功夜話」によると木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)らが一夜砦を作る折りに集合場所にしたことがみられる。
その後一乗寺は衰微したが、臨済宗の江西祖伝禅師により万治元年(1658年)に臨済宗妙心寺派の寺院として再興される。現在一乗寺の地蔵堂に納められている地蔵像は慈覚大師の作で、尾張から江西禅師が移したものである。
禅宗として再興後は、彦根の井伊家の庇護もあって発展し、菩提和讃の編纂に携わった月山禅師や古事類苑の産業部の編集、「正法輪」の発刊に携わった雲外禅師(後藤亮一)を輩出した。
境内には境内や周辺から集められた五輪石塔が供養されている。石塔から古代の街道であったことを知ることができる。
また参道では秋に黄葉した銀杏並木が見られる。
文献等からみる歴史
[編集]古代・中世に貫く交通の要地と伊勢や桑名に向かう川湊があり、多くの鉄工(主に鋳物師)が住む信仰地であった。交通の要地としては尾張国の「スノマタの渡し」、通称「東海道」である[1][2][3][4]。境川(尾張川、足近川)と長良川の合流地点(現在の福寿工業の場所、昭和初期に流路は変更)までが戦国時代ごろまでの尾張国であることが「尾張志」などにみることができる[5][6][7][8][9]。
境川(尾張川、足近川)はかつての木曽川の本流で今の境川を通り、一乗寺の北で長良川と合流していたのである[10]。この合流した地点よりしばらく南をスノマタ河と呼んだ。その両側をスノマタ、スノマタの渡しと呼んだが、戦国時代までの通称である。
地蔵菩薩と参道は真東を向き春分と秋分の太陽が上る方角を、本堂は冬至の太陽の上る方角(真東より29°南に向く)を指していた。かつての本堂の向きの先に「辰星(時を告げる星)」という字名がみられる。それらの施設は太陰暦によるズレを修正するためのものであり世界的にはエジプトのアブ・シンベル神殿にみられる。「朝日さす 夕日かがやく木のもとにこがね千両後の世のたから」はそのことを象徴する歌で、農業には時節を知ることが不可欠である。「朝日さす 夕日かがやく...」という歌は全国にみられ、概ね時節を知ることができるので農業が発展して豊かになるという意味である。
さらに地蔵尊の安置された東西線は、白鳥が飛来する最南端を指している。世界的にみる鉄工民が白鳥を追いかけて日本まで来たという伝承があるが、そのことを裏付けるような形態である。一乗寺はほぼ往時の地形を残している。これは一乗寺から真西の南宮山にもみられる。本殿は真東より29°南に向いており、南宮山の本殿の先に宮代廃寺跡という塔の跡がみられる。太陽を観測する技術が世界中に拡がっていたことが確認できる。
一乗寺の北西にある排水機場を工事した際に弥生時代や古墳時代の土器が数百と出土した。大きな船が「スノマタの渡し」についていたことを裏付ける。一部が羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館でみられる。土岐や瀬戸で製作されたもので「奈良文化財研究所飛鳥資料館」の解説によると交易品であることが分かり、一乗寺に集積されていたことを知ることができる。出土品から2000年近く前には信仰地であり、交通の要地で物資の中継点でもあったことが分かる。
一乗寺の「伝承記」には弘仁10年(819年)に空海により開闢されたとある。信仰地として象徴的な場所に空海により地蔵尊が安置された。承和二年(835年)六月廿九日に出された太政官符によると、スノマタ川(現在の長良川の一部)の渡し船を2艘加えて4艘にし両岸に布施屋を設けよという命令が朝廷から出された。大安寺(当時空海が別当)より忠一が派遣され「スノマタの渡し」は整備された。整備後は国司と国分寺によって管理運営されたとある[11]。
正式な「東海道」は桑名を通るのだが、船が難破することがあったために陸路である一乗寺を通過した。そのため通称「東海道」と呼ばれた。一乗寺の参道は律令時代の官道の規格の名残を残しおり、上辺約6mの台形に土が盛った道である。両側に上辺2mの高さ2mの鎌倉時代の土塁が築かれてある。一乗寺の参道を真東に延長すると足近町の「北宿」と「南宿」の間を通り木曽川町黒田に到達することから古代は直線道路が築かれていたことが分かる[12][13]。一乗寺の参道は通称「東海道」であり、律令時代からの形が残っている。
五輪塔の多くは墓ではなく街道沿いや渡しに寄進されたモニュメントである[14]。洪水などの災害があっても道の場所が分かるように主に中世に寄進された。そのために街道のあった場所に五輪塔は多い。一乗寺にある五輪塔は境内地および西側の新川(新たに設けられた境川)の工事などで出土したものである。
鎌倉時代ごろには興福寺または東大寺の荘園地になっていた。源平合戦のキッカケである治承・寿永の乱で当時の一乗寺とその周辺は燃やされて源行家らが陣を置いたことが一乗寺の「伝承記」や「吾妻鏡」、「平家物語」にみられる[15]。墨俣川(現在の長良川の一部)は東西の境と認識されており、たびたび陣が敷かれた[1]。源平合戦が終わるまでの間、源氏と平家が小競り合いをし、その際にも羅災した[16]。
源頼朝が上洛する際の行き帰りに当時の一乗寺(小熊)に休憩または宿泊したことが「吾妻鏡」にみられる[17][12]ことから、上洛の前に再建したことが分かる。この時の奉行が梶原景時であったことが「吾妻鏡」にみられる。
戦国時代になると織田信長が「森部の戦い」の後で当時の一乗寺に乱入し周辺を焼いたことが一乗寺の「伝承記」、「信長公記」、「武功夜話」にみられる[18]。「信長公記」や「武功夜話」によると当時の一乗寺に乱入し制圧したのちに佐々成政に整備しなおすように命じたとある。
「武功夜話」によると木下藤吉郎らは当時の一乗寺に参集し、馬を50頭堤の下に繋いでおいた[19][20][21]。境川 (岐阜県)に木材を流し、東小熊でその馬を使い引き上げて西小熊で組み上げて、境川を渡り現在の「中部運輸局岐阜運輸支局」に砦を築いたとある。そのためか、「中部運輸局岐阜運輸支局」の南側の橋の下に石垣で使われたであろう五輪塔といった転用石が多くみられる。
織田信長は小熊の町ごと現在の岐阜市に移動した。その際に信仰仏である地蔵尊も慈恩寺に移動した。そこには多くの鋳物師がおり、戻りたいと懇願したようだが信長は地名を小熊に変更した。字名から現在よりも広範囲であったことが分かる。伝承によれば小熊地蔵が信長の枕元に立ち小熊に戻りたいと懇願したところ、新たな地蔵堂の字を小熊に改めたという。
その後に豊臣秀吉の治世までは寺として機能していたようだが、その死によって衰微し荒廃していった。「武功夜話」によると一夜砦の痕跡を探した時には土の山があるばかりで荒れ地が拡がっていたことが書かれている[22]。
万治元年(1658年)に江西祖伝禅師を開山として月空禅師が禅寺として再興した。現在の地蔵尊は慈覚大師(円仁)の持ち物で、知多郡美浜町上野間(旧上野間村)の大仙寺から安置した。彦根の井伊氏が後ろ盾になったために寺紋が橘である。地蔵尊は今も神が宿る信仰の地のためと安置した。大きな開発が行われなかったお陰で古代の痕跡が残り、確かに西の彼方から鉄工と農耕を伝えた人々の故郷に手を合わせる形になっている。
江戸時代は、土地を寺院に寄進すると年貢を免れることができた。寺院に2割を寄進するだけでよかったこともあり、禅寺は大きいところが多い。
「菩提和讃」を編集した人物のひとり、月山禅師が住職を務めたころには最盛期を迎える。
天明の大飢饉のおりに「天明地蔵尊」が建立された。「天明五年 己正月廿四日 西小熊村」とあり、天明5年正月24日が迎えられなかった人のためにと刻まれている。天明の大飢饉が大規模であったことと羽島付近も例外ではなかったことを伝える。
昭和になって、14代の後藤亮一(雲外禅師)が国会議員を務めた。「古事類苑」の産業部の編集、「正法輪」の発刊に携わった。臨済宗妙心寺派の宗務総長を務めるなどをしたが「私は聖人ではないので」が口癖で有髪でちょび髭をしていた。
戦後には経済的に困窮し、松原をイチョウに植え替えた。そのために、秋には紅葉が見られる現在の姿になった。
脚注
[編集]- ^ a b 『吾妻鏡』より 元暦二年四月小十五日戊辰(1185年4月15日)。...若違令下向墨俣以東者。且各改召本領。且又可令申行斬罪之状如件。...とあり、東西の境とみなされていたことが分かる。
- ^ 『吾妻鏡』より 文治元年十月大廿五日甲戌(1185年10月25日)。今曉。差領状勇士等。被發遣京都。先至尾張美濃之時。仰兩國住人。可令固足近洲俣已下渡々。次入洛最前可誅行家義經。...とある。足近の隣は洲俣(スノマタ)と呼ばれたことが分かる。
- ^ 『十六夜日記』に、すのまたとかやいふ河には舟をならべて、まさきのつなにやあらん、かけとヾめたるうきはしあり、いとあやうけれどわたる、此川つつみのかたはいとふかくて、かた〳〵は淺ければ、 かたふちの深き心はありながら人目づヽみにさぞせかるらん かりの世のゆききとみるもはかなしや身をうき舟の浮橋にして、とぞおもひつづけヽる とある。尾張側の墨俣の渡しは寺院(かつての一乗寺)が経営していた。
- ^ 『玉葉』 壽永三年一月五日 ..語りて云く、頼朝の軍兵墨俣に在り。今月中入洛すべきの由聞く所.. 翌一月六日 ..坂東の武士すでに墨俣を越え美乃に入りをはんぬ。.. とある。義経、梶原景時らは尾張側の墨俣で落ち合ったことが分かる。
- ^ 『尾張志』の『海西郡』に「是はもと此尾張國内なりしを、天正年中に木曾川を境として、葉栗、中島、海西と三郡ともに、川向を美濃に屬られたるによりて、今は美濃國にも彼三郡あり、されど是は、本國の郡名にて、彼國のもとよりの郡名にあらず、是は豐臣家のはからひなり」とある。
- ^ 『尾張志』の『葉栗郡 古今のうつりかわり』に「天正十二年、秀吉公のはからひにて、起川を國ざかひにあらため、川西の村々を美濃に屬られたり、その美濃の地は今羽栗郡とかけり」とある。
- ^ 『古事類苑』の『新撰美濃志一 美濃二十一郡』の記載には、天正10年(1582年)、羽柴秀吉によって木曽川沿いの三郡(葉栗郡、中島郡、海西郡)を分割して美濃国に移したとされる。
- ^ 『古事類苑』の『鹽尻 三十三』の記載には、日本紀に、尾張美濃の界を鵜沼河といへり、豊臣家妄りに国界を私になしてより、尾張の地濃州と呼ぶ地多し、とある。
- ^ 『古事類苑』の『鹽尻 五十五』の記載には、尾張川九瀬 大炊渡 鵜沼渡 板橋渡 気瀬渡 大豆途渡 食卯渡 釋島渡 墨俣渡 市川渡。是は古へ尾州より美濃に渡る堺なり、今の如きは濃州に属す。
- ^ 『西遊行囊抄 六下』に、 洲俣河ハ舟渡也、川ノ廣サ前ノサワタリ川ノ如シ、此水上ハ飛騨山ヨリ流レ出ル...とある。飛騨山より流れ出る川は木曽川のことである。
- ^ 承和二年(835年)六月廿九日の『太政官符』に、布施屋處 右造立美濃尾張兩國堺墨俣河左右邊 以前被從二位行大納言兼皇太子傅藤原朝臣三守宣偁、奉勅、如聞件等河、東海東山兩道之要路也、或渡船少數、或橋梁不備、因玆貢調擔夫等、來集河邊、累日經旬、不得渡達、彼此相爭、常事鬪亂、身命破害、官物流失、宜下下知諸國、預大安寺僧傳燈住位僧忠一依件令修造、講讀師國司相共撿校上、但渡船者以正税買備之、浮橋并布施屋料、以救急稻充之、一作之後、講讀師、國司、以同色稻相續修理、不得令損失...とある。墨俣川(現在の長良川の一部)を挟んで周辺をスノマタと呼んだことが分かる。大安寺は、奈良の大安寺で、このときの別当が空海 弘法大師である。国司と国分寺による共同経営あったことが分かる。
- ^ a b 『吾妻鏡』より 建久元年十二月小十七日丁酉(1190年12月17日)。黒田。
建久元年十二月小十八日戊戌(1190年12月18日)。小熊。とある。一宮の黒田と小熊はこの時はつながっていたことが分かる。一宮の黒田は一乗寺の参道の真東にある。頼朝一行は一宮の黒田からかつての一乗寺に戻って休息したことからその関係の深さが分かる。 - ^ 『大乘院記録』に 應仁二年(1468年)十二月十五日、自二京都一至二鎌倉一宿次第、 大津〈三里〉...赤坂〈三里〉 墨股〈二里五十町〉 黒田〈三町尾張〉 折戸〈三里〉萱津〈三里〉 熱田〈五十町〉...とある。
- ^ 滋賀県の石塔寺 (東近江市)のパンフレットによると街道沿いに寄進されることもあることがみられる。
- ^ 『吾妻鏡』に「治承五年(1181)三月小十日丙戌。十郎藏人行家〔武衛叔父〕子息藏人太郎光家。同次郎。僧義圓〔號卿公〕泉太郎重光等。相具尾張參河兩國勇士。陣于墨俣河邊。平氏大將軍頭亮重衡朝臣。左少將維盛朝臣。越前守通盛朝臣。薩摩守忠度朝臣。參河守知度。讃岐守左衛門尉盛綱。〔號高橋。〕左兵衛尉盛久等。又在同 河西岸。及晩侍中廻計。密々欲襲平家之處。重衡朝臣舎人金石丸爲洗馬至河俣之間。見東士之形勢。奔歸告其由。仍侍中未出陣之以前。頭亮随兵襲攻源氏。縡起 楚忽。侍中從軍等頗失度。雖相戰無利。義圓禪師爲盛綱被討取。藏人次郎爲忠度被生虜。泉太郎。同弟次郎被討取于盛久。此外軍兵。或入河溺死。或被傷殞命。 凡六百九十余人也。」とある。源行家が一乗寺に陣を敷いて戦う様子が描かれた絵が残っていることから、一乗寺を中心に陣を敷いていたことが分かる。そして、参道を通り鎌倉街道から知多まで逃げたのである。
- ^ 『吾妻鏡』の寿永三年二月一日庚申の條に 「蒲冠者範頼主蒙御気色。是去年冬、為征木曽上洛之時、於尾張国墨俣渡、依相争先陣、与御家人等闘乱之故也。其事今日巳聞食之間、朝敵追討以前、好私合戦、太不穏便之由、被仰云々。」とある。
- ^ 『吾妻鏡』より 建久元年十月小廿八日己酉(1190年10月28日)。於小熊宿。須細大夫爲基賜身暇...とある。戦国時代頃まで重要な人物は皆寺院にて宿泊した。そのため小熊は寺のことを指す。
- ^ 『武功夜話』に「右之如く討入ハ酉(四)之年 、先年申(七)年 数度ニ及ひ候也、先祖孫九郎尉、某共一党之者、佐々内蔵助殿一緒仕る、在々処神社仏閣悉く焼払ひ御引取ニ相成る、佐々内蔵助殿、某共洲俣ニ相留り、引続取手相固め長陣ニ相成候、...」とある。森部の戦いのあと現在の小熊町と足近町に進軍し陣を置いたことが分かる。
- ^ 『武功夜話』の秀吉たちが集合する予定の場所を相談する段において「洲俣之渡の密院で盂蘭盆会(7月)の最中」とある。集合した場所は寺院であることが分かる。
- ^ 『武功夜話』の現代文訳に「藤吉郎様が言われるには、申歳(永禄三年)の築塁の場所は僅かであるが高地である。大松原、小松原に砦跡が残されている。私が考えるに、申歳以来、数度の築塁が成功しなかったのは、敵方が攻めて来ることができた理由に土塁だけの守りにあった。幸いにも尾張川は天与の用材搬入路なので、ひそかに洲俣へ入り、場冊や鹿垣を幾重にも構えて防御策となし、そののちに築城すればよいと思うとのこと。」とある。現在の一乗寺の字名が「小松生」その隣が「大松原」である。一乗寺の堂宇は山の上に築かれている。「尾張川」は現在の境川のことである。
- ^ 『武功夜話』に「洲俣と云ふ所是節所ニ候也、洲マタ川、尾張川大小数条寄合ふ所、河原数町ニ及ひ候、洲俣之渡、美濃尾張ニ通ふ鎌倉道ニ候、旅人行通之渡節処、雨来れバ一夜ニして水溢れ、船橋立処ニ流失、為ニ旅人之足を止め居並旅籠軒を連べ候も、永禄申(三)年已来、美濃尾張取合出入はけ敷成来り、此方数年来舟橋相懸候者相無く、旅人難渋之次第、・・・滞留之旅人籠宿ニ止宿、・・・舟にて川渡候、此の渡水深き処ニ流有、何れも渡河難成、渡守永楽銭三文之直ニ候也」とある。スノマタはスノマタ河を挟んで美濃と尾張の両岸を指した。一乗寺の参道が「鎌倉街道」の一部でスノマタの渡しと直結していたことがここに記されている。一乗寺は昭和初期までその境内地が数町歩あった。字名は「小松生」と「大松原」である。小熊小学校の西側の字名が「籠屋」で旅籠が並んでいたことが分かる。
- ^ 『武功夜話』の前野家の子孫が洲俣を尋ねた段において「於洲俣相尋候事。寛永甲子(1626)年五月十三日。尾張川大きく洲俣ニ流入候処、・・・洲俣渡小松原六七反、・・・然ニ候も御尋の城跡今ハ名残も相 無、此小松原通抜候処五反斗、城畠と申処、其之城跡ニ候也、・・・森部ハ此先ニ候よと腰をのはし指差候、右ハ洲俣渡口に於て」とある。一乗寺の字名は「小松生」その隣が「大松原」である。この頃、寺は荒廃して何もなく万治元年(1658年)に禅宗寺院として再興された。この記述は正しい。城畠は「中部運輸局岐阜運輸支局」の場所と思われる。西小熊とその周辺を散策したことが分かる。
参考文献
[編集]- 『羽島市史』
- 『美濃路見取絵図 第二巻 解説篇 東京美術発行』
- 『古事類苑』
- 『尾張志』
- 『吾妻鏡』
- 『平家物語』
- 『信長公記』
- 『武功夜話』